ファヴォリテ・ド・リシュリュー 2003年
ファヴォリテ・ド・リシュリュー 2003年
再入荷はお問合せください
商品詳細
品切れ中です。
さらに詳細はこちら
-
〜リシュリュー枢機卿〜 wikipediaより
カトリック教会の聖職者にしてフランス王国の政治家。
1624年から死去するまでルイ13世の宰相を務めた。
西部フランスの小貴族に生まれ司祭職の道を進んだ彼は1607年に司教叙階を受け、
1609年にリュソン司教に任じられた。1614年の全国三部会に聖職者代表として出席。
そのときの活躍が、国王ルイ13世の母であり摂政であった
マリー・ド・メディシス(メディチ家出身)に認められ、彼女の推挙により政界入り。
ルイ13世とマリーとの政争に巻き込まれ一時失脚するが、政治の出来る聖職者としての
才腕を認められて1622年に枢機卿に任じられた。
2年後の1624年、首席国務大臣(事実上の宰相)に任じられた。
当時、ドイツを舞台に起こっていた三十年戦争をめぐる外交姿勢
(リシュリューは介入に積極的)などをめぐって王太后マリーと対立したが、
1631年にマリーがロレーヌ公のもとへと逃れていった。
中央集権体制の確立と王権の強化に尽力し、行政組織の整備、三部会の停止などを通じて
後年の絶対王政の基礎を築いた。また、国内のプロテスタントを抑圧し
1628年にはフランスにおける新教勢力の重要な拠点であったラ・ロシェルを攻略した。
対外的には、勢力均衡の観点から同じカトリック勢力であるオーストリア・ハプスブルク家、
スペイン・ハプスブルク家に対抗する姿勢をとった。そのため、国内ではラ・ロシェルを
攻略したように反国王の立場をとるプロテスタントを抑圧したにもかかわらず、
三十年戦争に際してプロテスタント側(反ハプスブルク家)で参戦した。
一方で、文化政策にも力を注ぎ、1635年には「フランス語の純化」を目標に
アカデミー・フランセーズを創設した。
これらの諸政策は一部の王族や封建的な大貴族の強い反発を招き、幾度となく
リシュリューを排除しようとする陰謀が企てられたが、その度に発覚して関係者が処刑された。
しかし、これらの動きはリシュリューの死の直前まで続いた。
1642年12月4日に居館のパレ・カルディナル(現パレ・ロワイヤル)で没し、
後にたてられたパリのソルボンヌ教会に葬られている。
ブルボン朝の発展と繁栄のために大きく尽力し、近代フランスの礎を築いた大政治家であった。
冷徹なマキャヴェリストであった反面、まれにみる無私の人でもあり、
為政者としての広い度量を兼ね備えてもいた。
信念は「王権の拡大」と「盛大への意思」、フランスは強大にならねばとの確信であり、
従わない者に対して「国家の敵」と見なした。
デュマ作の小説『三銃士』にも登場し、王妃や三銃士と対立して策謀を巡らす悪役としての側面と、
フランスの発展に尽力する優れた政治家としての側面という両面から描かれている。
フランス海軍の戦艦「リシュリュー(Richelieu)」は、リシュリュー枢機卿に因む。 -
〜フロンサックという村〜
赤ワインのみがこの地を名乗る事を許され、とても魅力的で、豊かで力強く、
肉付きがあり、ボディがしっかりとしています。
ドルドーニュ河とイール川の2つの河川の合流点に位置し、
サンテミリオンの隣、より河口近くに位置するのがフロンサック地区。
小さな谷から成る古いぶどう畑で、水が豊富なおかげで
春の夜の霜のリスクが減り、夏の暑さが和らげられます。
畑は、日当たりの良い丘陵の斜面に広がります。
水はけが良く、メルロとカベルネ・フランが充分に成熟することができます。